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荻野 美和  Miwa Ogino

コマエンジェル主宰
​狛江ストリートダンス協会 副会長

​狛江コミュニティラジオ局パーソナリティ

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荻野美和

玉川大学芸術学部 演劇専攻卒業
1990〜2000 劇団演劇倫理委員会主宰

​2006〜コマエンジェル主宰

狛江のご当地ヒーロー・コマレンジャーの脚本演出
​外部公演脚本演出などを手がける。

コマラジ昼の帯番組「アフタヌーンナビ」

​「昼下がりのコマエンジェル」の

企画・パーソナリティを務める

主婦パフォーマンス集団コマエンジェルの
​脚本・演出・振り付けを務める

いつもコマエンジェルを応援してくださる皆様へ

​「未沙」ご観劇をご検討してくださる皆様へ

 いつも私たちを応援していただいて、本当にありがとうございます。

コマエンジェルは本当にサポーターに恵まれている幸せな団体だと、日々感謝をしております。
 
 今回、代表である私の20年来の目標でありました「お芝居」を
コマエンジェル主催としてやらせていただくこととなりました。
 

私が劇団の主宰をしていたのは、もう20年以上前のことになります。
当時、年に2本のお芝居をこなすことは、とてもハードなことでした。
1年以上前から劇場を押さえ、一本終わればすぐに次の芝居の執筆と準備。
毎回毎回納得のいく本が書けるとは限りません。
浮かばない。書けない。それでも稽古初日はやってきます。
物事を学びインプットしていく時間もないままに、次の次の劇場を押さえながら稽古に入っていく日々でした。

そんな中でも、数本に一本は、食事も就寝も忘れ、

書かずにはいられない衝動に駆られた作品がありました。

そうした作品は非常に思い入れも強く、我が子のように愛おしいものでした。

「未沙」は、その最たる作品でした。
遠藤周作先生の「沈黙」や「私が・棄てた・女」などにインスパイアされ
私なりのイエスを見つけた頃、書き上げた作品です。

これを書き上げた時、私は泣きました。
過去に傷つけてしまった人を思い、慚愧の念に駆られて泣きました。

この作品だけはいい作品にしよう。いい作品になるはずだと思い、上演したのが28歳の頃でした。

公演は失敗したわけではないけれど、私にはまだ後悔が残りました。
この作品はもっといい作品になるはずだった。
もっと私が力をつけた後、いつか絶対にこの作品を再演しよう。そう心に誓った頃
私は子供を身ごもり、事実上、劇団活動の終焉となってしまいました。

もう、再演をするのは無理がある年齢になってしまいましたが
心強い仲間と、幸運な状況が整い
何かに背中を押されたように、23年の時を経て、再演をする運びとなりました。

 私はクリスチャンではありませんが
遠藤周作先生のイエス像には深く共感し、
私だけのイエス像も、心の中にしっかり存在します。

その、私のイエスについて
少しお話をさせてください。

_______________________

 

 私は幼い頃、父も母も教員だったため、お手伝いの「おばさん」という人に半分は育てられた。

私の田舎は昔から町中がほとんどぶどう農家で、親族は豪農だった。本家があり、大きなお蔵がいくつも並ぶ、立派なお屋敷だった。 私が生まれるもっと前、そこには下男・下女が働いていて、「おばさん」はそこで働いていた下女だった。

 

 農家から下男下女がいなくなった頃、母は妊娠。それでも両親は共働きだったので、本家で下女としての仕事を失った「おばさん」に「お手伝いさん」としてきてもらうようになった。

 おばさんは母よりずいぶん年上だった。学校で学んだこともなく、字も書けなかった。
機転も利く方ではなく、洒落た料理も作れない不器用なおばさん。
だけど、私の世話は一生懸命にやってくれた。朝から幼稚園バスのお見送りも、お迎えも帰ってからの遊び相手も。子供のいなかったおばさんにとって、私は本当の子供か孫のような存在だったのだろう。


かっこいいから、とか綺麗だから、などのステータスを理由に好きか嫌いかを判断するほど賢くない幼少時代、ただ、受ける愛の大きさで純粋に自分も愛情を返していた。私も、おばさんが大好きだった。

私が悲しくて泣いていると、理由も聞かずにただ一緒に悲しんで泣いてくれた。「美和ちゃんが泣いてるのが悲しい」ただそれだけの理由で。
 

幼稚園の頃から小学校低学年の頃は、
家に帰っておばさんにポッキーと魚肉ソーセージを買ってもらうのが何よりも楽しみだった。
おばさんは母に「もう買わないで」と注意を受けながらも、
それを守らず、一つ覚えのように私に買い与え続けた。

今ならわかる。私の喜ぶ顔が見たかった一心だったのだろうと。




お友達と遊ぶことを覚えた頃から、私はおばさんを疎ましく感じていた。
おばさんのする心配は、私にとってはどんなに涙ぐまれてもうんざりだった。

私はどんどん成長し、おばさんと話すこともなくなった。

田舎っぽい風貌、学がないこと、私はどこかでおばさんを見下すようになっていたのだと思う。
おばさんと会話する時も目を合わせなかったり、最低限の返事だけでどこかに遊びにでかけてしまったり

それでもおばさんはいつも私を見て、私を心配して、私に優しかった。

成長して生意気になっていく私も、おばさんにとっては魚肉ソーセージを喜ぶ子供のままだったのだろう。

 

中学を卒業する年、母が少し早めに退職をした。
それは同時に、おばさんが我が家からいなくなるということだった。
毎日3kmはあろうかという距離をてくてくと歩いて我が家まで通っていたおばさん。

最後の日に、おばさんは涙を浮かべていた。

「美和ちゃん、元気でね、忘れんでね」

その時も私は目もあわせずに、普段と同じような対応で「ありがとう」も言えなかった。

 

不器用な足取りで自宅への道を歩いて行く淋しそうなおばさんの最後の背中は、
今も忘れることが出来ない。


幼かった。

覚悟もなく、悲しみもなかった。

別れの苦みを、まだその時の私は知らなかった。

 

 それからもおばさんはたまに、「美和ちゃんは元気ですか」と電話をくれた。

最初のうちは電話にでたものの、慣れてくると電話にも出ずに、母が私や姉の近況報告などをしていた。

今思えば、おばさんは、私と話したかったのだろう。

こんなに親以外で私を愛してくれる人など、どこにいただろうか。

そんなことにも気づけない、幼くて愚かな子供だった。

 大学で上京していた頃には、おばさんからの連絡はほとんどなくなり、それでも母は、住所や電話番号は分かっているので必要があれば連絡できると思っていた

 

 私、25歳。結婚が決まったとき、母がまっさきに披露宴に招待したかったのはおばさんだった。

私ももちろん、育ての母であるおばさんは必ず来てくれると思っていた。

 ところが母からの思いがけない知らせ。「おばさんの消息が分からない」とのことだった。

以前住んでいた借家にはもうおらず、子供もいずに親戚の居場所まではわからなかった故、おばさんを探す手だてがなくなってしまった。
 

おばさんにとって、私は特別な娘だった。

痛々しいまでに一途な愛情。

体裁など気にせずまっすぐに私を守ってくれて

離れてからもずっと私を気にしてくれていたおばさん。

花嫁姿を、おばさんには一番みてもらいたかった。

 

 

 結婚して3年、28歳の頃。

劇団の活動のため子供を作ることができなかった私が、もう思い切って子供を生もうと覚悟を決めた。

しかしなかなか子宝に恵まれず、「私は親になれないのではないか」と不安な時期をすごしていた。

 

そんな折、おばさんの居所が見つかったという母からの電話。

私は急いで主人とともに実家に帰り、おばさんのいる施設に連れて行ってもらった。

おばさんは数年前にご主人を亡くし、姪の面倒をうけながら特別養護老人施設にいた。

しかも、今はもう昏睡状態、いつ息を引き取ってもおかしくない状態だった。

やっと会えたおばさんは、眠っていた。

「もう数日こんな状態なんですよ」と職員。

声を出す前に、涙が溢れて仕方なかった。

やっと会えたのに、やっと感謝ができる年齢になったのに、もうおばさんには私の声は届かない。

 

「おばさん、美和だよ、」何度も手を握りながらぐちゃぐちゃの声で語りかけた。

すると信じられないことに、おばさんが目を開けたのだ。

ここ数日目を開けることもなく眠っていたのに、職員も「おや」っという空気になった。

 

「おばさん、美和ね、結婚したんだよ。幸せに暮らしてるよ。」

おばさんは何も喋らなかったが、目は私を見ていた。

何かを言おうとしていることだけはわかった。

「おばさん、ありがとうね、これまでありがとうね。会いに行けなくてごめんね」

小さい頃のように、おばさんに甘えるように泣きじゃくった。
もう、言葉が出なかった。
どんなにありがとうを積み上げても
どんなにごめんなさいを積み上げても
とても伝えきれない思いが私の中で暴れた。

あの時に言えなくてごめんなさい。
あの頃に返せなくてごめんなさい。
私はこんなにおばさんを愛していたんだ。

どうしてこんなに時間が経つまで気づけなかったんだ。

 

おばさんは何も喋らなかった。
ただ私を見て、一生懸命私を見て、その後生涯消えない思いを刻み込んでくれた。
 

 

それから数日後、母からおばさんが息を引き取ったとの知らせを受けた。

「最後に美和に会えて、安心したんじゃないかな」母が言った。

再び私は甲府に戻り、おばさんの葬儀に出席した。

身寄りのほとんどないおばさんの葬儀は、私と姉を含めても15名ほどの質素な葬儀だった。

 

墓石もなく卒塔婆だけのお墓に、私と姉は長い時間手を合わせた。
おばさんの人生は、何かいいことあったの?
おばさんが幸せを感じたことはあったの?
貧しい家に生まれ、下女として人に奉公し、愛を注ぎ可愛がってきた生意気な小娘に​そっけない態度を取られたままお別れをし、夫婦で細々と暮らしてきたであろうおばさん。

戻ってきてくれるなら、私のこれまでの幸せを全部差し出したい。

そこから連日連夜、私はおばさんを思って泣いた。
 

命の価値は、ステータスなどではない。
学歴がなくても、財力がなくても、美しくなくても、もっと尊いものが存在するのだと
わかるまでにこれだけの時間を費やしてしまった。

 

あの日から今日まで、おばさんを思い出すたびにぼろぼろと涙が流れる。

慣れることなく、思い出すたびに鮮明な苦さが私の胸を締め付けて涙が止まらない。

おばさんは、慚愧の苦みを教えてくれた。そして、永遠の愛も教えてくれた。

おばさんは、私が生きている限り、この世に生き続けているのだ。

見返りがなくても、裏切っても裏切っても、愛を惜しまず与えてくれた存在。

それはまさに、イエスの存在。

イエスの死後、弟子たちの心にイエスキリストが蘇ったように、

おばさんは私のイエスになったのだ。

そしておばさんは、今もあの時と変わらず
私のそばにいて、私が悲しい時、苦しい時
何もできないけどそばで一緒に泣いていてくれるのだ。

 

 

おばさんが逝ってからすぐ、私は妊娠した。

おばさんが授けてくれたのだと思った。

おばさんの愛を受け継ぎ、その愛を注いだ娘は今22歳になった。
もう立派な大人だが、子供のことは、幾つになっても心配だ。

 

娘も今、私のことを疎ましく思っているだろう。

それでも私はなりふり構わずに、子供に愛を注ぐ。

その愛情は間違ってると言われても

おばさんがそうしてくれたように

私は私の愛情を思い切り注いでいる。

 

愛とは、無力のものだ。
しかしその無力な愛しか持たないイエスは
今この瞬間にも、世界のいろんな場所で生きている。

愛だけを行い、人々の狡く卑しい心の生贄となって十字架にかけられたイエス。

すべての人々を許したイエス。
世の終わりまであなた方の側にいると、弟子たちに語りかけたイエス。
 

私のイエスは今も私のそばにいる。
愚かだった自分の、そんな傷跡を通して私に語りかける。
 

知恵の実を食べ、エデンを追われたアダムとイブの子孫である私たちは
知恵を得たばかりに、無意味な線引きと差別意識に満ちている。

知恵があるゆえに美しさや賢さ、財力を求め、ステータスを高めることに執心する。

しかし稀に、知恵の実の遺伝を持たない人間を、神様は地上に遣わす。

彼らはきっと、神様から命の実をもらって生まれたのだと私は思わずにはいられない。※注釈

 

でも、イエスは姿を変え、今の時代にもそこかしこに復活しているのではないかと思うのだ。
過去に傷つけてしまった人の、あの悲しげな目の中に。

 

 

未沙をご覧いただいた皆様の中にも、きっとイエスを宿した誰かが思い浮かぶはずです。

​どうか、今苦しみや悲しみを持っていらっしゃる方にも

「一人ではない。何をしてあげられなくても、共に悲しみ、共に泣いてくれる人はいる」

​ということを、思い出していただけますように。

​あなたのそばにいる未沙を、思い出してください。
 

※注釈
エデンの園には2本の木があった。知恵の樹と生命の樹であった。知恵の樹の実を食べると神々と同等の善悪の知識を得、命の木の実を食べると永遠の命を得るのである。

『創世記』によれば、人間はエデンの園に生る全ての樹の実は食べても良いが、知恵の実だけは、食べることを禁じられていた。なぜなら知恵の樹の実を食べると必ず死ぬからである。

しかしアダムとイブは知恵の樹の実を食べてしまう。善悪の知識を得たアダムとイヴは、裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、イチジクの葉で陰部を隠した。

 神は事の次第を知り、人間が生命の樹の実までも食べ永遠に生きるおそれがあることから、アダムとイヴはエデンの園を追放される。

この出来事により、人間は必ず命に終わりが訪れるようになった。

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ドイヒーじゃない私もみてね
​ドイヒーだけが私じゃないのよ
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